株式会社ネタもと(設立2000年/本社:東京都港区北青山)は、「すべての人にPRを!」をミッションに、累計約3,100社の企業・団体のPR支援を手がけてきた会社である。創業者の本村氏は、19歳で学生起業(同社は3社目)。以来、今日に至るまでに40年超にわたる経営者人生を歩まれてきた。本村氏には中小企業の経営改革に関して、一つの揺るぎない信念がある。それは、PR・広報による“社員のファンづくり”こそが、会社の成長・発展の原動力になるという確信である。自社においても、PR・広報活動の他、“社員のファンづくり”を目的とした数々の取り組みが実践されており、その参加機会はクライアントや取引先など、社外のステークホルダーにも開放されている。多くの中小企業が採用に課題を抱える昨今において、同社は女性社員比率約7割、平均年齢27~28歳、平均年収650万円など、実に際立ったポジショニングを確立している。数ある企業のなかで決して埋もれることのない同社の強烈な個性は、いかにして生まれたのか。本稿では、本村氏の人生ストーリーを振り返りながら、その秘密を紐解いていきたい。

お客様の広報の自走化・加速化を実現させる唯一無二のPR支援カンパニー

株式会社ネタもと 代表取締役社長 本村 衆さん私たちは、中小企業様を対象に「広報の自走化」を目的とした広報支援サービスを提供している会社です。特徴は、お客様のPR活動が内製化された状態を、最終的なゴールにしていること。私たちは、これを“広報の自走化”と呼んでいます。つまり、いずれは弊社のサポートから自立いただくために、日々のサービスを提供しているのです。実際にクライアント企業様とのご契約は、その多くが数年以内に終了しています。弊社としては、せっかく築いたストック収入を自ら手放すようなゴール設定をしているわけですから、一見すると非常識なビジネスだと思われるかもしれません。しかし、私たちが選ばれる理由は、まさにそこにあるのです。実のところ、お客様の“広報の自走化”にコミットしているPR会社は他にないので、業界内で唯一無二のポジションを獲得しています。そもそも私たちが“広報の自走化”を支援する理由は、会社の存在意義や目的に対して、最も強い想いを抱いているのは経営者だと考えているからです。同様に、経営者の考えや自社の動きを最も理解しているのも、PR会社の担当者ではなく社員の方々でしょう。それならば、社内の人材がPRのテクニックを身につけ、自社で情報発信を行っていくほうが理に適っているはずです。また、PRは継続によって効果が発揮される地道な活動ですから、ランニングコストの面においても自走化が理想なのです。我々のこのような考え方が多くの経営者様のご支持に繋がり、おかげさまで毎月約25社のペースで新規ご契約をいただいています。現在、日本に存在する株式会社は約330万社。そのうち約100万社に活動実態があるそうです。私たちがお取引をいただいているのは、そのうちほんの500社程度。加えて、学校法人や地方自治体においてもPRの重要性はますます高まっているので、今後のマーケット開拓の余地は大いにあると見込んでいます。

12歳で親元を離れ、全寮制の中高一貫校に入学する

私は東京生まれ、横浜育ちです。会社経営(百科事典などの訪問販売)をしていた両親のもと、一人っ子として育てられました。12歳のとき、横浜にある中高一貫教育の私立共学校(山手学院)に入学。兄弟がいなかったこともあり、自分の意志で全寮制の学校を選びました。寄宿舎のある中高一貫校は珍しく、私が入学した当時の山手学院は、イギリスのパブリック・スクールをモデルに創立されていました。留学制度があったり、修学旅行はアメリカに約3週間のホームステイに行ったり(当時の為替は1ドル=約300円!)。非常に国際色豊かな校風で、裕福な家庭の生徒が多い環境でしたね。

あの頃はまだ、「先輩の命令は絶対!」の時代。だから下級生の頃の寮生活は、まるで地獄のような日々でした。たとえば、先輩から屋上に呼び出されたり、真夜中に数キロ離れた店まで買い出しに行かされたり(しかも後輩たちの自腹です!)。毎日が理不尽の連続でした。あまりの苦痛に耐えかねて、入寮後1年もしないうちに、120名中30名ほどの生徒が辞めていきましたから。12歳で親元を離れ、そんな環境を生き抜いていくわけですから、精神的にも肉体的にも鍛えられますよね(笑)。過酷な下級生時代を共に過ごした仲間との絆は特に固く、時を経た今でもお付き合いが続いています。

16歳、人生で初めて「死」を意識したバイク事故

株式会社ネタもと 代表取締役社長 本村 衆さん私の高校時代といえば、不良文化の最盛期。実家のあった鎌倉界隈は、後に『湘南爆走族』の舞台になったエリアです。当時の私も例にもれずリーゼント姿で、毎日バイクを乗り回していました。その頃には寮内でも上級生になっており、先輩たちの呪縛からようやく解放されたタイミングでした。しかし、その反動が大きすぎたのか、結局は素行の悪さが原因で寮から追い出されてしまいます。そんな矢先に起こったのが、16歳のときのバイク事故でした。まさかの赤信号で交差点に進入した友人のバイクが、走ってきたバスの側面に衝突したのです!後部座席に乗っていた私は、数十メートル先に跳ね飛ばされました。本来なら、死んでいたかもしれないほどの大事故でした。しかし幸いなことに、落下した場所が土の上だったことのほか、いくつもの奇跡が重なったおかげで、大きなケガを負わずに済んだのです。この事故を機に、私はバイクに乗るのを辞めました。その当時、事故で亡くなる仲間もいたなかで奇跡的に生き残った自分は、神様に助けられたと感じずにはいられなかったのです。

悪友との関係を断ち、大学受験の勉強に本気で打ち込む

それまで勉強そっちのけで不良少年をやってきた私に、両親と担任の先生が施した究極の打開策…それは、かねてから私が恐れていた3歳上の先輩に、家庭教師を依頼することでした。ここでまた、「先輩の命令は絶対!」の生活に戻り、勉強をしいられるようになったのです。

さて、最初ばかりは無理やり勉強させられていたものの、大学進学への意欲は自ずと高まっていきました。とはいえ、国立大学の受験はスケジュール的に難しいと判断し、受験科目が限られた私立文系大学を目指すことにしたのです。高校2年生の2学期、先輩のもとで勉強を始めた時点の私の学力は、中学2年生の英語から始めなければならないレベルでした。しかし結果的には、日大商学部に現役で合格できたのです。駆け込みの勉強だけで結果が出たのだから、せっかくなら私立文系でトップの学部を目指そう!そこで私は浪人をして、早稲田の政経学部を目指すことにしました。自ら掲げた目標を達成するため、まずは高田馬場の予備校に入学。浪人生活1年間は、友人との関係を断つことを決意しました。勉強に集中したかったので、西武新宿線の沼袋駅から徒歩15分ほどの下宿に入り、両親以外の誰にも居場所を明かしませんでした。下宿先はトイレも共同、風呂場もないボロボロの狭いアパート。そんな部屋には女の子も誘えないので、勉強だけに集中するには絶好の環境でしたね(笑)。

偏差値30の状態から浪人生活をスタートしたこともあり、私の成績はみるみる上がっていきました。結果が出るのが嬉しくて、当時は心の底から勉強が楽しかったものです。

青山学院大学に入学するも、まもなく六本木の夜遊びへ…

しかし現実は厳しく、第一志望の早稲田大学には残念ながら不合格…。嫌いだった古文が出題されたことなど、当時の苦い記憶は今でも鮮明に残っています。あのときは、あまりの悔しさに号泣したものです。もう1年の浪人も考えましたが、さすがに集中力が続く自信がなかったので、最終的に青山学院大学経済学部へ入学することを決めました。

入学当初は勉強する気で英語研究会に入ったものの、気づいたときには遊んでばかり…。都会の大学生活は、あまりに誘惑が多すぎたのです(笑)。彼女を探しにテニスサークルにも入りましたが、目的が果たされるとまもなく退会。サークル内の上下関係が煩わしく、嫌気がさしていたのです。さて、そんな私は大学の外に刺激を求めて、夜の六本木で遊ぶようになっていきます。その当時、東京の夜遊び文化の象徴として賑わっていた六本木スクエアビルには、10階建のビル内の8フロアがディスコになっていました。金曜・土曜の夜には、エレベーター待ちに200名が殺到するほどの賑わいだったのです。

六本木のディスコを拠点に、集客ビジネスの才覚を発揮する

株式会社ネタもと 代表取締役社長 本村 衆さんほどなくして、私はディスコでパーティーを企画するようになっていました。なぜかというと、可愛い女の子たちにモテたかったから。当時のディスコには、VIPルームに無料で出入りできる女性たちがいる一方で、一般の男性は入ることさえできませんでした。男性客はいくらでも集まってくるので、ディスコの店員は男性客を邪険に扱っていたのです。私も当初は、そんな男性客の一人でした。しかし、それからほどなくして、私は六本木のほとんどのディスコに無料で入場できるようになり、VIPルームにも通してもらえるようになっていたのです。その理由は、私のパーティーの集客力が、その界隈で評判になっていたから。というのも、私が企画したパーティーは、ディスコにとって集客の弱い土曜・日曜の15時~18時の時間帯。いわゆるアイドルタイムに貸切イベントを開催することで店舗に30万円の売上を確約したので、非常に喜ばれたのです。そのうちイベントが毎月定例になると、あれほど雑に扱ってきた従業員の態度が一変し、「本村くん」と呼ばれるようになっていましたからね(笑)。ちなみに当時のパーティーによる収益は、1開催あたり45万円!(チケット3,000円×300人=90万円/場所代30万円+諸経費15万円=45万円)当時の私は学生にして、現在価値に換算すると2倍以上にもなる大金を、毎回遊びながら稼いでいたのです。このパーティービジネスにおける収益化のポイントは、もちろん300人の“集客”にありました。より多くの入場チケットを効率的に販売するために、知恵を働かせたのです。それは、チケットの販売が得意そうな女子大生に協力してもらうという発想でした。彼女たちは、チケットを10枚売ったら1枚は無料。さらによく売れる子には、ディスコの無料入場やVIPルーム着席の権利など、特典を付けていました。当時のディスコの従業員といえば、客からすると憧れの存在です。その頃は、私自身がディスコのアルバイトに入ることで、その立場をフルに活かしながら、チケットが売れそうな子を見つけるたびに声をかけていきました。

3,000人のイベント集客がメディアで話題になり、その波及効果を体感する

大学2年生のとき、私は「六本木フェスティバル」という大規模イベントを企画し、ついに3,000人の集客に成功します。界隈のディスコ10店舗を巻き込み、1枚のチケットで全店舗への出入りを可能にすることで、一大イベントとしての盛り上がりを演出。さらに、映画会社との契約をまとめイベントを企画しました。これが大きな話題を呼び、3,000人の集客に繋がったわけです。私が予期していなかったのは、テレビ番組4社と、紙媒体など20社にも及ぶメディアが、このイベントの取材に来たことでした。さらに驚いたことに、翌日の読売新聞の3面記事に、このイベントの企画代表として、「青山学院大学2年生 本村 衆氏」と掲載されたのです。このときの取材実績の効果により、私個人やサークルの知名度はますます高まっていきました。この一件が、私にとって“メディアの威力”を実感した初めての経験であり、現在のビジネスに繋がる原点となったことは言うまでもありません。その後もサンフラワー号の船上貸切パーティーをはじめ、さまざまなイベント企画を通じて集客力を高めていきました。

世間の注目を集める“騒ぎの起こし方”、そして安定的な集客手法を心得た私は、そこからイベントチケットの販売以外にもキャッシュポイントを見出していきます。それは持ち前の集客力を武器に、企業から協賛金を集めて収益化するビジネスでした。提案内容は至ってシンプル。学生の母集団へのアクセスを求める大企業を対象に営業をかけ、イベントに協賛してもらうのです。また、パーティービジネスを通じて培った人脈にも大いに助けられました。幸運にも、イベントのチケット販売を手伝ってくれた友人のお父様が大手生活用品メーカーの取締役宣伝本部長だったのです。莫大な広告宣伝費を抱えるその企業にスポンサーになっていただいたおかげで、そこから数々のメーカーや広告代理店のご紹介に繋がり、ビジネスがどんどん拡大していきました。

19歳で学生起業!ビジネスに夢中になり、大学中退へ

株式会社ネタもと 代表取締役社長 本村 衆さん私は企業との取引を始めるために大学2年生で会社を設立しました。社名はフリーアンドイージー。自ら運営していたサークル名をそのまま使いました。まずは大手消費者金融カードローンサービス系列のクレジットカード会社から業務を受注。カードの加盟店開拓を進めることで、最終的に会員は2万人に達し、6,000万円の売上をつくることに成功したのです!当時はまだ、大卒の平均初任給が月額15万円に満たない時代です。一方の私は起業したことで、月額50万円超の稼ぎを得ていました。授業も行かずにビジネスに没頭していた結果、4年間の大学生活で取得したのは16単位のみ…。ついに卒業を諦め、大学を中退しました。

“実体験型プロモーション”のビジネスモデルを確立し、会社を急成長させる

あるとき私と同じく学生が運営し、読者モデルの派遣事業を行っている会社と巡り合いました。そこから成り行きで会社を合併させることになり、パズルリング(知恵の輪)という新会社を設立しました。事業内容は、企業向けのセールスプロモーション。自社商材を持っていなかったので、お客様の課題をその都度ヒアリングし、新たな企画・提案を行うスタイルでした。やり甲斐もあり面白かったのですが、非常に手間と労力がかかるうえに、その成果は属人的なもので、担当者の手腕によって変動してしまいます。もっと効率的に収益をあげ、スケールできる方法はないだろうか…?そこで私が目を付けたのが、日用品や化粧品、食品・飲料など、プロモーション予算を潤沢に抱えている業界でした。とはいえ、それらの企業のセールスプロモーションは既に電通や博報堂などの大手が押さえており、我々のような中小企業には参入が難しい状況にありました。そこで、小回りを利かせた“実体験型”のプロモーション手法を展開すれば、大手が参入してこない領域で差別化を図れるのではないかと考えたのです。このビジネスが見事にマッチしたのは、当時約2万人の生徒を抱えていた、とあるクッキングスクールでした。私が提案したのは、食品・飲料メーカー、クッキングスクールの双方にとって、win=winを実現できるサービスです。メーカーには、自社が宣伝したい商品をクッキングスクールに無償で提供してもらいます。スクールの講師はその商品を活かしたレシピを、商品説明と共に生徒たちに教えるのです。スクールとしては、授業で使用する食材を無料で入手できるうえに、商品説明に対する報酬まで得られるわけです。当時のクッキングスクールの生徒の属性は、上場企業のOLが大半でした。高所得の彼女たちは料理教室で試食した商品の購買率も高く、この実体験型プロモーションは通常のプロモーションよりも宣伝効果があったので、食品メーカーから非常に好評だったのです。このビジネスの当時の収益イメージは、売上:食品メーカーから300万円、原価:クッキングスクールに100万円+諸経費50万円、利益:150万円でした。競合がいなかったこともあり、これを自社のパッケージサービスとして、食品・飲料メーカー、味噌や砂糖などの業界団体へと独占的に展開。その結果、イベント事業や他のプロモーション事業と合わせて、年商約17億円の会社へと成長できたのです。当時は30名ほどの従業員で事業を回していました。この頃には明確に、“仕組化して儲ける”ことを意識してビジネスを構成するようになっていましたね。

39歳、ネタもとの前身となる株式会社リアライズを設立する

株式会社ネタもと 代表取締役社長 本村 衆さんパズルリングは共同経営者との考えが合わなくなり、私が抜ける形で終了しました。そして2000年11月15日、39歳で株式会社リアライズを設立しています。これがネタもとの前身となる会社です。それまでの私には、ビジネスにおける明確なビジョンや目標と呼べるものがありませんでした。事業を通じて社会や人の役に立てることには意義を感じていましたが、基本的には自分が稼ぐために起業し、会社を経営してきたのです。とはいえ、ビジョンや目標を持つことの重要性は、個人の人生においては既に確信していました。そこで、「会社は個人(自分)と会社(社員)の想いを実現する場」であると改めて定義し、その意味をリアライズ(=実現する)という社名に込めたのです。

新規ビジネスとして飲食事業に進出するも、あえなく撤退

リアライズ時代には、クッキングスクールと共に大手百貨店にタイアップ企画を持ち込み、お中元・お歳暮ギフトの共同開発・販売を実現させました。この商品の売れ行きが良かったことで、百貨店の役員の方から評価をいただき、新規事業の提案に繋がったのです。それは、デパ地下のイートインコーナーに水餃子の専門店を出店するというアイデアでした。餃子といえば、日本では“焼き餃子”が市民権を得ていますよね。しかし、中国や台湾では“水餃子”が主流なのです。私には、初めて海外で水餃子を食べたときの感動が、強く心に残っていました。あのモチモチとした食感と味わいは、水餃子ならではの魅力…。一方で日本には水餃子専門店がなかったので、ビジネスチャンスを感じていたのです。この事業アイデアは、役員の方との関係性があったおかげで、異例のスピードで実現に至ります。しかも、出店時の設備導入費を百貨店側が支払うという好条件でスタートできたのです。ちなみに当初から、私はこの業態のフランチャイズ展開を狙っていました。そのために、メニュー数の少ない専門店業態を選び、茹でるだけで提供可能な冷凍餃子をクッキングスクールと共に開発したのです。この『故宮水餃』は事業開始から約2年間で、百貨店内2店舗、銀座・初台の路面店2店舗、さらに移動販売車2台の出店に至りました。銀座店は立ち食い形式の店舗だったこともあり、特に高回転率の繁盛店でした。地域柄、3万円の紹興酒がコンスタントに売れましたし、ニンニク不使用の水餃子は、近隣のクラブへのデリバリーも好評でした。業態開発のポイントとして、小規模かつアルバイトスタッフだけで運営できるような簡単なオペレーションにこだわり、店舗展開のしやすさを重視していたのです。

しかし、店舗や従業員が増えるにつれて、経営課題やトラブルも増えていきます。売上不振店舗のテコ入れが必要になったり、従業員が売上金を持ち逃げしたり、店舗の水漏れ事故が発生したり…。資金や人にまつわる問題が立て続けに起こるようになり、好調だったはずの業績が逆回転を始めたのです。さまざまな改善策を試みたものの、最終的には飲食事業からの撤退を決意。このときの経験から、私は本業以外のビジネスで成功し続けることの難しさを身をもって知ったのです。特に飲食ビジネスは参入障壁が低い代わりに、立地×オペレーション×資金力が容赦なく勝敗を分ける厳しい世界。成功し続けている外食経営者の方々には、改めてリスペクトを感じるようになりました。

過去の成功&失敗体験を集約し、PR領域における新規ビジネスを模索

料理教室での実体験型プロモーション事業や外食フランチャイザー事業のように、一つの強力な商材やサービスがあれば、一気に会社をスケールさせることができる…。仕組みで儲けるビジネスモデルのインパクトを知った私は、新たなパッケージビジネスのアイデアを探していました。そこで辿り着いたのが、現在のPRプラットフォームサービスの構想でした。PRを事業領域に選んだ理由は、これまで培ってきた自身の人脈を活かせる分野だと思ったからです。また、当時のPR業界といえば、クライアントは大企業が中心。なぜならPRには、年間1,000~2,000万円の予算が必要だったからです。もしも我々が、従来よりも圧倒的に安価なPRサービスを提供できれば、業界の常識を覆すほどの価値になる…。しかも、PR業界がこれまでアプローチしてこなかった中小企業やベンチャーにまでターゲットを拡げれば、マーケットは無限大だと考えたのです。

『ネタもと』の前身となる、プレスリリースプラットフォームを開発する

2005年、まずは企業の広報部を対象に、約100名のメディアネットワークにアクセスできる“プレスリリースプラットフォーム(PRP)”のサービスからスタートしました。同サイトの制作費は約1000万円。飲食店開業時の初期投資と比べると、およそ10分の1の資金で始めることができました。このサービスの価格は当初、月額5万円に設定。それまでPR会社に莫大な費用を投じてきた大企業にとっては、拍子抜けしてしまうような低価格です。さて、果たしてこのサービスに需要はあるのか…?まずは自ら営業に赴くことで、市場の反応を探ることにしました。とはいえ、大手企業の広報部は、ほとんどが門前払い。ようやく提案まで漕ぎつけたとしても、サービスのコンセプトが理解されることはありませんでした。当時はまだ、PRは人と人とのリアルな繋がりで成立するものだと固く信じられていたのです。無名の会社が立ち上げた怪しいWebサービスなんかに、マトモなメディアが登録するとは思えない。そんなビジネスが成立するはずがない!…暗にそう言われたようなものでした。しかし、ロッテとジョンソン&ジョンソンの広報担当者だけは、「こんなビジネスモデルは米国にもない!」「このようなサービスを待っていました!」…と、意外な反応をくださったのです。広報上手で知られるグローバル企業から認められたことは、私にとって大いに自信になりました。

PRプラットフォームサービス『ネタもと』の誕生へ

試行錯誤を繰り返すうちに、大手よりも中小・ベンチャー企業に潜在ニーズがあることが見えてきました。そのような企業には通常、社内に広報部などありません。PRのノウハウに通じた社員もいなければ、充分な予算もないことがほとんどです。しかし同時に、社員の満足度向上や採用力の強化、顧客の増加など、PRを通じて貢献できる経営課題も数多く存在していました。ちなみに現在も状況は大きく変わっていませんが、経営者の方々の多くは、PRと広告の違いを理解されていません。だからこそ、弊社のサービスを導入される企業様には、セミナーや勉強会などの学びの機会を提供し、PRに対する理解を深めていただくようにしたのです。そもそもPRと広告では、目的や効果が異なります。PRの場合、最終的に世の中へ発信されるニュースは、あくまでメディアの視点が捉えた客観的な情報になります。それがテレビや新聞など、公共性の高いマスメディアからの発信であれば、その信頼度は圧倒的に高まるのです。地道なPR活動を重ねることで、社会からの好感(=ファン)が蓄積されていけば、先に述べたような経営課題の解決にも繋がっていきます。そして、自社でPRを完結できるようになったとき、弊社への支払いも不要になるのです。中小・ベンチャー企業にとって、PRほど費用対効果の高い情報発信手段はありません。弊社サービスの導入は、“広報の自走化”のための初期投資とご認識いただくことで、ご契約数を大きく伸ばしていくことができました。

ネタもと社員への想いと、経営者としての究極の目的

株式会社ネタもと 代表取締役社長 本村 衆さん学生起業をしてから、バブルの隆盛と崩壊、“失われた30年”、そしてコロナ禍と、社会の激変や経済危機の荒波を乗り越え、幸運にも今日を迎えることができました。私自身は雇われた経験が一度もないので、言いたいことを言い、好きなようにやってきた側の人間だと思います。同じくネタもとで働く社員たちにも、会社の看板に依存せずに自力で食べていけるようなスキルを、ぜひとも身につけてほしいと願っています。日本に星の数ほど存在する企業のなかで奇跡的に巡り合い、一度しかない人生を共にしている社員たちなのです。せっかくネタもとに入社したからには、大志を持つことの重要性を、若いうちに気づかせてあげたい。大志を胸に日々を過ごすことで、豊かで悔いのない人生を全うしてほしいと心から願っています。

私の究極の目的は、これまでの経営者人生で培ってきた経営哲学や価値観、いわゆる“本村イズム”を自社に浸透させることです。自分としては100歳まで生きるつもりですが、その頃にはさすがに引退していることでしょう。そのときにもし、私の血が社内に脈々と受け継がれ、会社が成長している姿を見届けられたなら、これほど幸せなことはありません。そのために今、仕事も遊びも真剣に取り組んでいるのです。今後も中小企業の皆様、そしてネタもとの仲間と共に、明るい未来に向かって邁進してまいります。

 

◆ 編集後記 ◆

このたび取材対応をいただいた社員の方から、記事作成のために分厚い冊子をお預かりした。表紙には、『 ネタもと LIFEBOOK ~ THE RULES OF LIFE ~ 』と、金色の文字で刻まれている。この冊子は、ネタもとで働く社員の方々にとって、いわばバイブルのような存在のようだ。創業者の本村氏が大切にしている考え方や価値観(本村イズム)を明確に提示し、組織に浸透させることを目的に、2020年に制作されている。特筆すべきは、表紙に刻まれている“LIFE”の文字。一般的に、社員教育を目的に企業が作成する資料といえば、企業理念(ミッション・ビジョン・バリュー)や会社の歴史など、あくまで“企業主体”の内容で構成されているものが多い。ところがこの冊子は、同社で働く社員の“LIFE(=人生)”に関する内容に多くのページが割かれている。そこには、「会社のために働くな、自分の人生を豊かにするために働きなさい」という、本村社長のメッセージが込められているのだ。会社や仕事を、各々の人生を豊かにしていくためのステージにしてほしい…。社員に対して、このような想いを持つ経営者は他にもいるだろうし、なかには言葉にする社長もいると思う。しかし、それを具体的な取り組みにまで落とし込み、会社として実践している経営者は他にいるだろうか。同社では、「目的意識を持って生きること」を組織の共通認識として浸透させている。幸せになるためには、“目的型”の人生を選択することが重要である―― これは本村氏の人生を通じた実感であるが、社員の方々に伝えるために改めて言語化を行ったのだ。社員にとって、幸せを構成する二大ファクターといえば、「仕事」と「プライベート」の充実。その双方の目標を明確にし、互いに連動させることで、一人ひとりが豊かな人生を創造していく…。そのための考え方が、『ネタもと LIFEBOOK』に集約されているのだ。これにより、日常業務においてはもちろん、社員の方々が人生のあらゆるシーンで迷ったときに、いつでも目的(本質)に立ち返ることができる。さらに日々の朝礼においても、全員が持ち回りでこの冊子を読み込み、同僚や顧客、取引先の方々に向けて学びの共有を行う機会が設けられている。このように、本村イズムを組織に“血流”として巡らせるための取り組みが、仕組みとして徹底されているのだ。一般的に、社員が“目的型”の人生を送るための内観や目標設定などの活動を会社が促すことは稀である。一方で、そのような習慣を個人が自主的に継続することも容易ではない。だからこそ、世間にはその種の有料セミナーが数多く存在するのだ。その点、同社の社員の方々は、会社から月給を得ながら、人生の目的と現在地との間にズレが生じていないか、常に確認する機会を持てているわけだ。さまざまな情報が溢れ、変化の激しい現代において、目的意識を持つ人や組織は非常に強い。同社に宿る強烈な個性は、本村イズムを組織に浸透させるための具体的な仕組みと、それを徹底的に運用させる実行力が織りなす技なのかもしれない。

取材:四分一 武 / 文:アラミホ

メールマガジン配信日: 2025年12月8日